日本橋再生計画 【道】の街、日本橋

日本橋の発展には、「道」の存在が大きく関係しています。江戸幕府により定められた五街道の起点になったこと、物資供給のために“水の道”を整備したこと、町人街を路地によって形成したこと─。「道」にまつわる歴史から、日本橋成功の秘密に迫ります。

五街道の起点として、日本の中心だった「日本橋」

現在も日本の道路の原点としての役割を担う「日本橋」の橋上中心にある「道路元標」
(現元標は、昭和47年に埋め込まれたもの)

1601年(慶長6年)、江戸幕府により、江戸と各地を結ぶ東海道・甲州街道・奥州街道・日光街道・中山道が順次整備され、1604年(慶長9年)、日本橋がこの重要街道の起点として定められました。江戸幕府の地誌書「御府内備考」には、「この橋、江戸の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、日本橋の名ありといふ」という記載が残っており、幕府が日本橋を起点に、五街道を発達させようとしていたことがうかがえます。やがて日本橋は、全国からやってきた多くの人や文化が交流する、日本で類を見ない街として発展していきました。

“水の道”で作られた街

「名所江戸百景 日本橋雪晴」歌川広重 1856年 国立国会図書館所蔵

江戸中期の江戸の人口は120万人ともいわれ、生活のための物資供給には、大河川の存在が不可欠でした。そのために、海と通じる水路を整備し、全国からの物資が船で江戸市中に入ってくるような街づくりを展開していました。
海に面した商業地にはいくつもの運河や河岸が設けられ、なかでも日本橋川・京橋川・三十間堀・八丁堀の河岸は、「水運の大動脈」といわれる要路となりました。

五街道の起点として、日本の中心だった「日本橋」

江戸時代、日本橋通り(東海道・中山道)と本町通り沿いには、間口数間、奥行20間(1間≒1.81m)の宅地が割り当てられ、これが町人の居住地となりました。こうして日本橋の路地は、表通りに面して店舗がつらなる町人長屋と、物売りや露店の賑わいで、活気溢れる街として発展しました。