日本橋に縁の深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第30回は、株式会社宮入・代表取締役社長の宮入正英氏。衣料品の問屋街である横山町で105年の歴史を刻んできた宮入。三代目の正英氏は、初代が育んだ「公の心」を受け継ぎ、街全体の活性化に積極的に取り組んでいる。商社マンから衣料問屋の経営者に転身した宮入氏に、横山町の未来図について話をうかがった。
横山町問屋街の歴史は江戸時代にさかのぼる。呉服商が軒を連ねていた堀留町が近かったことから、次第に小間物問屋が集まるようになり、大問屋街へと成長していった。明治41年(1908年)創業の宮入は、この街で屈指の老舗問屋といえる。長野県篠ノ井の大庄屋に生まれた初代が、店を構えたのが始まりだ。「初代は社会貢献、公の心が強い人だったんです」と宮入氏は語る。昭和4年(1929年)に世界恐慌が起こり、日本にも不況の波が押し寄せて、中小企業が相次いで倒産した。その時、初代は「自分たちが倒産したら、これらの商品を扱う中小零細のお客さまが困ってしまう」と、問屋間での適正競争を維持するために組合を設立。これが現在の横山町奉仕会であり、問屋同士の共存共栄を目指した組織の誕生は、当時、非常に画期的だったという。
初代のエピソードはこれだけに留まらない。たとえば戦後、焼け野原になった横山町を再生させようと、有志を募って全国紙に広告を打った話がある。「みなさんの土地はとってあります──」。この広告を見て、街を離れていた多くの問屋主が戻ってきたのだとか。「宮入だけが繁盛してはダメだ、街全体が栄えなければ、というのが口癖でした」。その精神は時代を超えて受け継がれ、二代目の正則氏も数々の公職を務めて街の発展に貢献した。
大学卒業後、商社勤務を経て、宮入氏が副社長として家業に入ったのは昭和60年(1985年)のこと。当初は仕事の流れに大きなギャップを感じたという。「父から、商社と零細企業ではやり方が違うんだぞ、と言われましたね」。戦後は経営も順調で、婦人衣料のほか紳士服や子ども服など幅広く手がけていたが、一方でファッション業界には新風も吹き始めていた。昭和40年代になるとデザイン力を武器にした「アパレルメーカー」が台頭。徐々に百貨店をはじめとする小売業者への販売力を強めていく。
そして、いまから10年ほど前、宮入氏は大きな方向転換を決断する。「“何でもある宮入”から“特定分野に強い宮入”に変えていこうと考えました。市場調査を行い、ミセスとシルバー向けのエレガントラインに力を入れるようにしたんです」。大きな変革を経て、現在の宮入の業態が形づくられていった。
いまも昔も大問屋街として変わらぬ魅力を放つ横山町。「近年アジアのお客さまも増えたので、街でもインバウンド需要に力を入れて、さまざまな取り組みを進めています」。昨年から中国バイヤー向けに銀聯(ぎんれん)カードの取り扱いをスタート、この春には街全体でWi-Fiの試験運用も始まる。「国内外から問屋が新規参入し、美容院や自転車店といった店舗も増えました。新しい遺伝子が入り、街が活性化していくのが嬉しいんです」。宮入氏は横山町のことを“多様な遺伝子を持つ街”と表現する。「ここには宝の山があり、これからも商人がワクワクする街であり続けたい」。
神田神社の氏子総代も務める宮入氏は、現在、神田祭の準備の真最中。横山町は御輿の担ぎ手が多いため、外部の助っ人はいないのだそう。「うちも社員全員で参加します。翌日はたいてい肩が痛くなるから、毎年みんなの肩をたたくんです。ちゃんと担いだか確かめるためにね(笑)」。問屋街のリーダーは、祭りでも地域の舵取り役を担う。
株式会社宮入
東京都中央区日本橋横山町6-18
☎ 03-3663-5211(代)
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