うなぎ割烹 大江戸 九代目/芽吹会 会長/日本橋地域町会連合会 会長/全国鰻蒲焼商組合連合会理事長 湧井 恭行 氏

2014年11月号【第49号】

神様に見守られてきた日本橋 また一つ江戸の姿が蘇る

日本橋に縁の深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第48回は、うなぎ割烹 大江戸の九代目当主である湧井恭行氏。日本橋地域町会連合会会長や全国鰻蒲焼商組合連合会理事長を務めるほか、この秋、社殿が新しくなる福徳神社の崇敬会『芽吹会』の会長としても尽力している。江戸時代から人びとに愛されてきた鰻について、日本橋の街と神社との繋がりについてお話をうかがった。



濃口醤油とみりんの誕生が鰻の蒲焼きを完成させた

 寛政年間(1789年~1801年)、浅草の蔵前で創業した大江戸。その後、田原町を経て、初代の出身地である日本橋に戻り、昭和21年(1946年)に現在の地で商いを始めた。その時より受け継がれる店舗は、現代の名工にも選ばれた棟梁が手がけた数寄屋造りで、そこかしこに江戸情緒が漂う。
 生まれも育ちも日本橋という湧井氏は、江戸文化への造詣も深い。この日は、貴重な品を見せてくださった。嘉永元年(1848年)に東都蒼先堂から発行された木版の書物『江戸酒飯手引』だ。江戸時代のグルメ雑誌のような書物で、国内にはわずか数冊しか現存しないという。日本橋の魚市場の繁栄の図や、浮世小路にあった料亭『百川』、江戸料理を代表する『八百善』をはじめとする名店が列記された中に、『大江戸』の初代の名を見ることができる。「御蒲焼、草加屋吉兵衛とありますでしょ。これがうちなんです」。1802年に長逝した初代の名は、現在も店主が代々継いでいるという。

「丑の日に鰻を食べる習慣は江戸時代の学者・平賀源内が生み出したといわれていますが、もう一つ、神田の鰻屋 春木屋善兵衛が考えたという説もあるんですよ」と湧井氏。

湧井 恭行 氏 1940年日本橋生まれ。1963年、慶應義塾大学卒業とともに店に入る。学生時代は手品クラブに所属し、30年にわたり現在600名の会員を有するOB会の会長も務め上げ、現名誉会長に。休日は、体力維持と趣味を兼ねてビリヤードに勤しむ。
 

 古くから日本人に食されてきた鰻。1700年代半ばには、江戸に専門店も登場していた。現在のような蒲焼きが完成したのは、濃口醤油やみりんが発明されてからだという。「1600年代に関東で大豆と小麦を発酵してつくる“濃口醤油”が発明され、1700年代に入ってからみりんが生まれました。それで、いまのような鰻のタレが出来上がったわけです」。江戸湾で上質な鰻が捕れたことから、当時“江戸前”といえば鰻のことを示した。この書物に掲載されている鰻屋は90件、蕎麦屋は120件。鰻は蕎麦の10倍もの価格だったことを鑑みると、江戸の人びとがいかに鰻好きだったか想像ができる。



商売の神様に見守られてきた日本橋の街

 もう一つ、湧井氏が取り出したのは、色鮮やかな『神田浜町日本橋北之図』だ。かつて日本橋の街には、多くの稲荷神社があった。「大きな商家にはたいてい、商売繁盛の神様であるお稲荷さんが祀られていました。この辺りには薬問屋も多かったので、現在では、薬祖神をお祀りされている神社もあるんですよ」。

嘉永元年(1848年)に発行された江戸の飲食店案内『江戸酒飯手引』(東都蒼先堂)。国会図書館にも収められている『江戸名物酒飯手引草』(近世風俗研究会)は、これの復刻版にあたる。

 この秋、新しい社殿に生まれ変わる福徳神社も、この古地図に「イナリ」と赤い文字で記録されている。「本石町には白旗神社もあり、福徳神社とともに幕府から富くじを扱うことを許可されていて大変賑わったそうです。日本橋は長い年月、たくさんの神様に見守られてきた街といえますね」。



人が憩える道 人が回遊できる街へ

 日本橋は関東大震災や戦災で建物の多くを失い、その度に少しずつ姿を変えてきた。「震災の後、うちの店の前に昭和通りがつくられました。真ん中には緑地帯があって、戦争中は近所のおじさんが畑で作物をつくっていましたよ」と湧井氏は振り返る。戦後はガソリンがなかったため、昭和通りには牛車や木炭自動車が通り、鰻問屋はリヤカーで鰻を運んできたという。
 昭和37年(1962年)、東京オリンピックを控えて東京に高速道路が整備された。湧井氏のお父様は「日本橋の美観が損なわれる」と反対していたという。「いま、街のみなさんと高速道路を撤去する署名活動を進めています。街の景観が取り戻せるのはもちろんのこと、小舟町や浜町など、昭和通りを挟んだ街へも行き来しやすくなります」。

上/今年7月2日に福徳神社の上棟祭で行われた「散餅(サンペイ)・散銭(サンセン)の儀」。近隣町会、神社関係者、施行関係者など40名が参加し、建物の安全と堅固長久を祈念した。
下/同8月2日に日本橋船着場で行われた夏越の祓の様子。

 撤去が実現した暁には、歩道を広くして緑を増やし、人が憩える道にしていきたいと湧井氏は想い描く。「モータリゼーションの時代はもう終わりました。車中心ではなくて、人が中心の街にしたい。江戸時代のよき姿を残しながら、商業の街として、ますます日本橋が栄えることを願っています」。

嘉永3年(1850年)に発行された『神田浜町日本橋北之図』。浮世小路の名が記載されているほか、現在と同じ場所に「イナリ」の文字で福徳神社も記されている。
DATA

うなぎ割烹 大江戸
東京都中央区日本橋本町4-7-10
☎ 03-3241-3838