日本橋に縁の深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第42回は、日本橋本町にある繁乃鮨 二代目の佐久間司郎氏。明治の頃に先々代が日本橋で商いを初め、現代に至るまで、代々神事のための魚を宮中へお納めしてきた。日本橋生まれの佐久間氏に店の歴史と街の移り変わり、未来への想いをうかがった。
むろまち小路にある繁乃鮨。前身は、明治期に創業した魚問屋「高藤」で、関東大震災によって魚河岸が築地に移転するまで、日本橋の地で商いをしていたという。その後、「高藤」から分家した佐久間氏のお父さまである始(はじめ)氏が江戸橋の袂で魚問屋「高根屋」を営み、昭和24年(1949年)に繁乃鮨を開業した。
佐久間家では先々代の頃から、宮内省(現・宮内庁)の賢所(神事を行う神殿)に鮮魚をお納めしている。「宮中では毎朝、神事が行われ、鮮魚を三品お供えするしきたりがあるそうです」と佐久間氏は教えてくれた。かつては毎日通っていたが、現在は週二回ほど、ご子息である三代目の一郎氏が宮内庁へ鯛などを納めに行く。
繁乃鮨が開店した当時は戦後で、まだまだ食糧事情も芳しくなかったが、古くから宮中へ納入していたこともあり、貴重な魚を手に入れることができた。先代の始氏は主に仕入れを担当し、共同経営者で腕のいい鮨職人でもあった大森繁雄氏が鮨を握っていた。店名は店に立つ大森氏の名前から一文字をとっている。
日本橋に生まれ育った佐久間氏は、幼少の頃から店の仕事を見てきた。大学時代は暮れになると、魚河岸の雰囲気を学ぶために、魚市場で金物屋を営む先輩の店でアルバイトを経験した。「この頃から少しずつ店を継ぐことを意識し始めた気がします」。
大学卒業と同時に家業へ。鮨の握り方や職人としての心構えなどは、職人たちから学んだ。初めはなかなか鮨を握らせてもらえなかったが、その日は突然訪れたという。「ベテランの職人さんがお風呂屋へ行っている間に、お馴染みのお客さまがいらして急に握ることになったんです。お客さまは平然とされていたけれど、本当に冷や冷やしましたよ。その時のことは鮮明に覚えています」。
鮨屋という商売は景気の良し悪しが手に取るようにわかると佐久間氏はいう。80年代後半から90年代初頭のバブル期は、証券会社のお客さまが主で、接待利用も多かった。「時代とともにお客さまの顔ぶれや世代も変化してきました」。現在では、近隣のオフィスワーカーだけでなく、女性客も多いのだとか。ゆったりと音楽の流れる店内は落ち着いた雰囲気で、確かに女性一人でも入りやすい。“繁乃鮨らしさ”についてうかがうと、「握りが小ぶりで品がよいことかな。もちろん、魚の鮮度を最も大切にしています。特にまぐろに力を入れていて、河岸(築地)でいちばんいいのを仕入れているんですよ」。
かつての日本橋の風景を、佐久間氏はこう振り返る。「昔は川の街でした。昭和通りには中之島があって、子どもの頃はそこでラジオ体操をしたんです。荷物を運ぶ牛が通りを歩いていたりして、のどかでした。小学校から高校までは都電に乗って九段下の学校まで通っていましたね」。高速道路が誕生し、地下鉄の乗り入れも増え、交通網も大きく変わった。
私学に通っていたことから、地元の友だちと遊んだ記憶が少ないという佐久間氏だが、お子さまのPTA活動で親同士の繋がりが生まれ、いまも仲がよいのだとか。「日本料理のとよださん、鰻の大江戸さん、割烹の松楽さんと、偶然にも食べ物屋ばかり(笑)。日本橋は横の繋がりが強い街なんです」。
コレド室町2・3のオープンに伴い、新たな魅力を放ち始めた日本橋室町~日本橋本町界隈。「これから人の流れが大きく変わるでしょう。映画館もできたし、本当に楽しみですね」と街の未来に期待を寄せる。
繁乃鮨
東京都中央区日本橋本町1-4-13
☎ 03-3241-3586
www.shigenozushi.tokyo