日本橋に縁の深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第24回は、伊場仙の第14代目当主である吉田誠男氏。日本橋の地で400年余り続いてきた団扇と扇子の老舗は、時代を超えて人々の暮らしに彩りを添えてきた。店の歴史と日本橋の移り変わりについて、また街の未来像についてうかがった。
伊場仙の初代・伊場屋勘左衛門の父親は、三河国岡崎で松平家の治水・土木工事の職人をしていた。徳川家康とともに遠州伊場村(現在の浜松市伊場町)に赴き、そこで勘左衛門が誕生する。その後、家康の江戸入府に伴って江戸へ移り住み、開拓工事に携わる。「当時、開拓した土地は下賜(かし)されたため、この地に落ち着き、商いを始めたと聞いています」。店名は、ゆかりのある伊場村からとった。
江戸時代、店の前には西堀留川が流れ、さまざまな物資が陸揚げされていた。幕府の御用を承っていた伊場仙は当初、和紙や竹製品などを扱っていたが、それらの材料を使って団扇の製造も手がけるようになる。団扇に絵柄を刷るために木版の刷り師や浮世絵師を数多く抱えていたことから、いつしか浮世絵の版元としても栄えていく。初代・歌川豊国、歌川國芳、歌川広重など、お抱えの浮世絵師はそうそうたる顔ぶれだった。
「版元はいまでいう出版社、浮世絵はポスターや雑誌のような庶民の娯楽でした。版元にはプロデューサーがいて、次は室町小町だ、次は歌舞伎役者だと題材を決めていたんです。きものの柄は、流行を見極めながら専属のデザイナーが描いていました」。
また、店では扇子も取り扱っていた。団扇も扇子も夏の商品、冬はどうしていたのかと尋ねると、「舟でみかんを運んで、売っていたんですよ」と意外な話が飛び出した。30軒ほどの団扇屋が軒を連ねていたこの界隈は“ 団扇河岸”と呼ばれていたが、どの店も冬はみかんを売っていたのだという。「季節に合わせてお茶屋さんが海苔を、履き物屋さんが傘を扱うのと同じような感覚だったのでしょう」。
明治に入り、太陰暦から太陽暦へ暦が変わると、カレンダーの製造販売を行うようになる。現在の事業の礎はこの頃に出来上がった。
吉田氏が家業に入ったのは、28歳の時。大学では原子力工学を学び、卒業後はカメラメーカーで特殊カメラの開発に取り組んでいた。
入社して4年半が過ぎた頃、店を継ぐよう説得される。「私は次男なんです。江戸の商家は長男が継ぐとは限らなくて、血よりも暖簾を大切にするところがあるんですね。うちも時代によっていとこを迎え入れたり、番頭さんが継いだりしてきました」。
技術職から商業への転身は、戸惑うことも多かったという。「何も教えてもらわなかったので最初はわからないことばかりでしたが、次第に大事なのは人づきあいだなと気づいたんです。人を動かすことですね。技術者だった頃も工場の人たちとの信頼関係が大事でしたから、同じだなと思いました」。
先代の後ろ姿から多くを学んだという吉田氏。「家訓はありませんが、父は二つの考えを貫きました。ひとつは“子どもに美田は残さない”。もうひとつは“二のつくものを持たない”。私もこれを真似て、子どもに財産は残さない(笑)。別荘や副業など二のつくものも持たないようにしていますよ」。15代目についても「息子が二人いますが、向いている人間が継げばいいと思っているんです」。
今年から有志とともに、日本橋の未来に向けて新しい活動も始めた。昭和通りの高速道路をとって運河をつくり、道を拡幅するなどして江戸の風情ある街を再現する計画だ。「2020年の実現が目標。運河に舟を浮かべ、映画のロケ地としても使えるような雰囲気にできたらと思っています」。日本橋に江戸の水路が蘇れば、また一つ街に新たな魅力が加わることだろう。
伊場仙(いばせん)
東京都中央区日本橋小舟町4-1 伊場仙ビル1階
☎ 03-3664-9261
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