日本橋に縁が深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第21回目は、江戸染浴衣の老舗・竺仙の五代目当主である小川文男氏。創業170年を迎えた竺仙の染物は、長年、手間のかかる高度な技術によって制作されてきた。1000種類ほどある柄は、いずれも竺仙らしい“粋な美しさ”に満ち溢れている。江戸っ子に愛され続ける竺仙の魅力と、日本橋との関わりについてお話をうかがった。
天保13年(1842年)、竺仙は浅草で誕生した。店の歴史は、初代・仙之助氏の趣味から始まったのだという。「初代は俳句が好きだったんです。文人雅人や歌舞伎役者のみなさんと楽しんでいて、仲間内で日本画の絵をモチーフに着物をつくったり、歌舞伎の衣装をつくったりしていました。それが評判を呼んで“誂えどころ”としての商いが始まったわけです」。
当時の浴衣は、白生地や無地がほとんど。そんな中、仙之助氏は小紋の技術を応用し、型紙を使った藍染めで浴衣をつくった。「藍染め自体は古くからある技法ですが、京都や大阪などでは色数が豊富な刺繍や織物に価値がおかれていて、力を入れている人がいなかったようですね」。その斬新さ、紺と白のさっぱりとした味わいが江戸っ子の好みに合い、たちまち人気を博した。江戸末期から明治期にかけて、竺仙の浴衣は江戸土産としても珍重される。
いつしか地方の高級専門店の目にとまり、取り扱う店が増えていったことから卸業として栄えていった。
浅草から日本橋に移転したのは、時代が下り、昭和20年代のことだ。「ここはもともと河岸のあった場所で、移転当時は鰹節の大店ばかりだったんです。いま以上に、すごく裕福な町でした。浅草では一般のお客さまが多かったのですが、引っ越してからは百貨店や専門店の買い付けの方が数多く通ってくださるようになりましたね。でも商い自体は、ずっと変わっていないんです」。
現在、竺仙の製品づくりを支える工房の数は、およそ30。染め付けだけでなく型紙づくりや仕立ても含み、いずれも長年に渡り強い信頼関係で結ばれてきた職人さんばかりだ。
中でも『長板中形』は、もっとも竺仙らしい技法といえる。約6.5メートルの一枚板に生地を張り、40センチ角の型紙を用いて、藍甕(あいがめ)で染めていく。江戸中期に確立し、明治後期までは浴衣染めが主流だったが、高度な技術が要求され手間もかかることからいまでは希少となった。染め上がりの絵際がはっきりとしていて藍色が引き立ち、潔い爽やかさを放つのが特徴。代々受け継がれてきた竺仙の信条「染は粋ひとがら」(=粋を探求する心)を支える、重要な立役者といえるだろう。
昭和22年生まれの小川氏は、幼少期から青年時代までを台東区谷中で過ごした。近くには東京藝術大学もあり、文化芸術に親しみやすい環境だったという。大学進学当時はちょうど学生運動の真っ盛り。授業のほとんどが休講だったため、ヨーロッパを遊学したり、好きな仏像の研究にのめり込んだりしていた。「特に薬師寺が好きでしたね。いま思うとこの頃に美しいものをたくさん見た気がします」。
若い頃から知らず知らずに日本古来の美意識を探求していた小川氏。そこで培われた目は、家業でもいかんなく発揮されている。江戸のデザインを新しい分野に取り入れるプロジェクトも、そのひとつだ。江戸の暮らしを今に活かすためのダイアリー『江戸帖』(江戸美学研究会編集)に、2010年版から浴衣柄を提供している。最近は京漆器の山田平安堂とのコラボレーションでiPhoneカバーを制作。
老舗の当主として、伝統を守る上での心構えのようなものはあるのだろうか。「そんなふうに考えたことは、実はないんですよ。自然に後を継いだから。ベンチャー企業の社長さんなら、こうしていきたいという思いが強いのかもしれないけれど、そういうものは特にない。ただ、今の時代の中で、竺仙が持っているものが活かせる場所はどこか、とは常に考えています。いろいろなお話をいただく中から、うちがやるべきことを見極めて進んでいるだけです」。そう軽やかに語る小川氏の言葉には、竺仙のデザインと同じ“潔さ”が見え隠れした。
竺仙
東京都中央区日本橋小舟町2-3
☎ 03-5202-0991
www.chikusen.co.jp