日本橋に縁が深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第19回は、日本橋室町にある福徳神社の宮司・真木千明氏。貞観年間(859~876年)にはすでにこの地に鎮座していたという福徳神社。いま仮のお社だが、2014年には約528平方メートルの敷地に鳥居、拝殿などが建設され「福徳の森」として生まれ変わる。古くから日本橋の街を守り、人々に愛され続けてきた福徳神社の歴史と、次代の展望についてうかがった。
福徳神社は、コレド室町の横にある。現在は仮社のため奥ゆかしい佇まいだが、平日の昼間でも、仕事の合間に訪れる参詣者が後を絶たない。神社に伝わる略記によれば千年以上前からこの地に鎮座していたという。神社の主祭神は「宇迦之御魂神」(うかのみたましん/倉稲魂命)で五穀豊穣の神様。この辺りがまだ田園地帯で、武蔵野国豊島郡福徳村と呼ばれていた頃から、「福徳稲荷」として祀られていた。
明暦3年(1657年)の大火の際、お社とともに碑石が崩壊したが、その内容を書き写した文書があった。それによると、武将の信仰が厚く、源義家朝臣が深く崇敬していたらしい。江戸城を築城した太田道灌も狩の帰路にしばしば参詣し、後に同神社に合祀された。家康をはじめとする徳川家将軍も信仰し、二代将軍・秀忠公が慶長19年(1614年)の正月に参詣した折には、「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛の言葉を残したという。この時、椚の木からなる鳥居に若芽が萌え出たことから「芽吹神社」と命名され、今日もその名で親しまれている。
江戸時代、神社のあった通りは「浮世小路(うきよしょうじ)」と呼ばれ、料理屋が建ち並ぶ繁華街だった。また、福徳稲荷は幕府から富籤(とみくじ)興行を許された数少ない寺社の一つであったことから、この辺りは多くの人で賑わっていた。
活気ある日本橋の街をつぶさに見てきた福徳神社だが、実はこれまで幾度かの移転や解体を経験している。最大の危機は、天保の改革(1830~1843年)の頃だ。老中・水野忠邦の命により神職や修検、出家者などが転居を命じられ、それに伴う形で福徳稲荷も姿を消した。しかし、水野忠邦の失脚後、氏子たちが奉行所へ願書を出し、稲荷は川岸の地で再興される。さらに関東大震災で被害に遭い、第二次世界大戦でも焼失するが、その度に再建されてきた。現在の地に落ち着いたのは昭和48年(1973年)のことだ。近年までは敷地の一部を駐車場として貸し出し、その収入で細々と存続していたという。「いつの時代も街の方々がなんとか残そうと努力を重ねてくださった。だからいまの姿があるわけです」と真木氏。人びとの信仰の深さ、神社への熱い想いが伝わってくる。「これほどまでに江戸の記憶を残している神社は少ないと思います」。
「芽吹神社」の呼び名と同じく、いま福徳神社は新たな芽吹きの時期を迎えている。「福徳の森が完成すれば、この通りがまた江戸時代のように賑わうかもしれません」。街が発展すれば、自ずと神社に集う人も増える。「これからも敷居は低くありたい」と真木氏は考えている。企業や商店が多い土地柄、お祓いや地鎮祭などの祈祷は、就業に差し障りのない早朝や夕方にも行っている。「神社は朝お参りするのが決まりという方もおられますが、それでは仕事のある方は参詣できません。都合のよい時間にお参りしてくださって構わないんですよ」。都心にある神社として、できるだけ街の人たちの要望に応えたいという。時代とともに周囲の風景は変わっても、地元を守り人に寄りそう神社の姿は変わらない。
福徳神社
東京都中央区日本橋室町2-4-14
☎ 03-3276-3550