日本橋に縁が深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第16回目は、明治神宮の御用をはじめ、真言宗豊山派・總本山長谷寺、大本山護国寺の御用達でもある、お香専門店「日本橋 千歳」の鈴木堯聖氏。元は数百の香料を扱う調香師であった鈴木氏が、御家流香道宗家の直門とあいなったエピソードをはじめ、香道の世界でいう“香りの聞き方”について語ってもらった。
御家流香道宗家・三條西堯山(ぎょうざん)師から、直接許状を受けて師範となり、以降、その伝承に努めてきた鈴木氏は御年80歳。
そもそも氏が日本橋室町に根を下ろしたのは、昭和25年、香料を専門とする会社への就職がきっかけだった。「フレグランスの香りを作る調香師をしていました。その当時、この辺りは旧魚河岸の名残を留め、魚介類や鰹節を扱う乾物屋さんなどが、あちこち目につきました」。
氏が調香師から香道へと進むきっかけとなったエピソードが実に面白い。「勤めていた会社の社長にご進物用のカステラを頼まれて、しょっちゅう文明堂さんに通っていたのですが、そのうち、いい香りがすることに気づいたんです」。カステラを焼く、卵や砂糖の甘い香りとは異なる、記憶にとどめている何百種類の香料にも存在しない香り。お店の方に聞くのもはばかられ、その香りのするほうへ。そしてお手洗いの格子戸を開けると…「今までに嗅いだことのない、実にシンプルで、すがすがしい香りがしました。見ると小さな木片が炭の余熱で焚かれていて、後から知ったのですが、それは白檀(びゃくだん)という香木でした」。数千年という歳月をかけて自然が育んだ、数百の香料を混ぜ合わせてもかなわない一木の香り。これだと思った。
香木と出会い、すっかり魅了され、矢も盾もたまらず十数年勤めた会社を辞めた。そして、その道の宗家である堯山先生に、持ったこともない筆で手紙をしたため、今できることをと、香木の香りを香料で表現したサンプルを同封し送った。「出しゃばったことをしました。でも逸る気持ちは抑えられなかった。まさか私みたいな者が、お公家様である先生のお弟子さんになれるとは思っていませんでしたが、二度三度と手紙を送らせていただくうちに、先生から『だいぶ香木に興味がおありのようですね。一度、私のいる大学の研究室にいらっしゃい』とお返事をいただいて」。
先生の鞄持ちをさせていただきながら3年後、一般の社会人たちに先生が直接指導される場があり、そこで初めて念願の門下生となる。
現在、御家流の男性師範は鈴木氏ただ一人だ。
香道では香りを“聞く”と表現する。「クンクンと鼻を近づけて嗅いだり、手で扇いで嗅ぐのではないんです。人に触れて話を聞く時に自然と呼吸をするように、香りに触れる時も目を軽く閉じて、香りに気持ちを集中させて自然に呼吸をすればいいんです」。
会社を辞めてすぐ独立開業したのが、お香の専門店「日本橋 千歳」。香木と天然香料を巧みに調和した香袋が人気で、中でも「日本橋」をイメージした香袋は、いつまでも寄り添っていたくなるような心和む香りがする。「“和”の香りは身近にあって心を和ませるもの。だから、香木や漢方薬など、なるべく自然なもので作りました。すべて堯山先生に監修していただいたんですよ」。
日本橋三越本店のカルチャーサロン他、さまざまな場所で鈴木氏指導による香道が体験できる。「体験なら作法なんかに臆することなく、貴重な香木の香りにどんどん触れたほうがいい。今の季節は寒景香(かんけいこう)や立春香といった季節の組香(くみこう)*を古歌と一緒に味わったりして、それはそれは和みます。自分だけの喜びではなく、同席した人々と分かち合うことができるのも香席の魅力です」。
香の道に足を踏み入れて半世紀あまり。「まだあと30年くらい生きて、香りで語り合える世界を構築していきたいんです」と微笑む鈴木氏。氏からたちのぼる和の香りと、そのまっすぐなお人柄に心が洗われるような気がした。
* 数種の香をたいて聞き分ける香遊び
日本橋 千歳
東京都中央区日本橋室町1-6-13
☎ 03-3241-1014