株式会社榮太樓總本鋪 相談役 細田 安兵衛 氏

2011年04月号【第6号】

粋が薫る、江戸っ子菓子屋の今昔噺
時代を超え愛される理由は“親切に作り、親切に売る”

 初代・栄太郎が、日本橋に店を構えたのは安政4年(1857年)のこと。日本橋の魚河岸に集まる人々を目当てに、屋台で金鍔売りをはじめ、そこで蓄えた財をもって「榮太樓總本鋪」を創業する。それから150余年、創業に大きく貢献した金鍔、さらに梅ぼ志飴や甘名納糖など、初代が創案したお菓子は時代を超えて大勢の人たちに愛されている。
 「初代が考案したお菓子に工夫を重ねて、最高の材料で愛情を込めてお菓子を作ってきました。どんな時代でも『親切に作り、親切に売る』を心掛けてきたことが、結果として時代を超えてご支持をいただいているんでしょうね」と相談役・細田安兵衛氏。
 また和菓子は、日本人にとって故ふる郷さとの味にも通ずると言う。「世界各国の料理が簡単に食べられる時代だけど、おふくろの味や故郷の味は別格。小豆や米など馴染みの食材で作られる和菓子は、私たちにとって故郷の味だからね。絶対になくならない」

細田安兵衛氏 昭和2年、日本橋1丁目に生まれる。慶應義塾大学卒業後、1950年に榮太樓總本鋪に入社。72年に代表取締役社長に就任。95年に会長、2000年から現職。名橋「日本橋」保存会副会長、日本橋倶楽部理事長を務め、地域の発展に尽力する。著書に『江戸っ子菓子屋のおつまみ噺』(慶應義塾大学出版会刊)がある。
 

決して奇をてらわずに 地に足のついた先取りを

 「のれん」とはただ守るものではなく、磨き育てるものである、という先人の教え。だからこそ昭和47年(1972年)社長に就任した際、新商品の開発はもちろん工場新設や新技術も積極的に導入した。「なんでも手作りが良いのではない。安定して美味しいお菓子をお客様に届けるためには、機械化はもちろん新しい技術も取り入れるのは当然」
 また開発を手掛けた商品について「自宅で手軽に愉しめるように、缶入り水ようかんや蜜豆の開発をはじめました。もちろん缶入りだからって、味への妥協は一切なし。特に蜜豆は、寒天や豆に蜜の味が染み込まないように何度も改良を重ねました。和菓子屋だからこそ、味や食感、色合いなど細かい部分にこだわりましたね」と当時を懐かしそうに語る。新たなる変革の重要性は説きながらも「でも奇をてらってはいけない。思いつきだけですぐ飽きられるようなものではなく、地に足がついた先取りをすることが大切」と話す。

飴ひと粒ひと粒に「榮」の文字が刻印された榮太樓飴。梅ぼ志飴、黒飴、抹茶飴、紅茶飴、のど飴の5種類で展開

粋は善、野暮は悪 老舗ぶる奴は野暮な奴

 150余年続く老舗菓子匠。老舗であることについて尋ねると「京や近江や伊勢商人の江戸店(えどだな)なら創業300年や400年だよ。150年なんて老舗の幕内にも入らない。また老舗とは自分たちから言うものではなくお客様からいただく評価」とキッパリ。
 江戸っ子の美意識に「粋」があり、その反対に「野暮」がある。そして一番の野暮は「粋がる奴」とされている。「江戸っ子の善悪の基準は、粋は善、野暮は悪。そして老舗ぶる奴は、野暮な奴なんだ」と気風のいい言葉が続く。

刀の鍔から名称がついた「金鍔」。ごま油の香ばしい香り、パリッとした皮の中にしっとりとした小豆餡が絶品

水路・水運を活用して 日本橋をさらに盛り上げる

 名橋「日本橋」保存会副会長でもある細田氏。今年、架橋100周年を迎えた日本橋の未来をどう考えているのだろうか?
 「架橋当時の東京市長・尾崎行雄が『その堅牢を図るとともに美観を添えんと欲し』と述べています。震災や戦災を耐え抜いた堅牢さは今も誇れるが、美観は悲しい現状だね」と細田氏。首都高速道路撤去を訴え続けて43年、「高度経済成長期に必要だった高速道路も役目や役割が変わってきた。今すぐ撤去は難しいかもしれないが、日本橋の景観や環境を取り戻すために声をあげ続けていきます」と力を込める。
 4月には船着場ができる日本橋川について「今後は水路や水運をもっと活用していくべき。羽田から日本橋まで船を使えば、モノレールよりも早いし景観も愉しめる。水上バスやタクシーを走らせるのもいい。日本橋川の活用でさらに地域を活性化させたい」と細田氏。最後に日本橋で一番好きな場所を尋ねると「祖父や祖母、父や母も私自身も日本橋で生まれて育った。ここが故郷なんですよ。ほかに行くところもない(笑)。好きな場所は、もちろん橋、日本橋だよ」と笑った。

金鍔や梅ぼ志飴はもちろん、季節の生菓子や焼き菓子など銘菓が揃う。喫茶サロンも併設
DATA

榮太樓總本鋪
東京都中央区日本橋1-2-5
☎ 03-3271-7785
www.eitaro.com