日本橋が、明治44年(1911年)に現在の石造二重アーチ橋に架け替えられてから、
今年4月3日で100周年を迎えます。
江戸幕府の開府とともに架橋されて以降、日本橋は幾度となく改修と改架を
繰り返してきましたが、現在の橋梁は重要文化財であり、官民地元が一体となって
「残しながら、蘇らせながら、創っていく」をコンセプトに再生計画を進めています。
ここでは、そんな日本橋の過去から現在、そして未来の姿をご紹介します。
監修…東京都江戸東京博物館館長 竹内誠氏
東京都江戸東京博物館に展示されている江戸期の日本橋のレプリカ(実物大で再現)。 東京都江戸東京博物館は東北地方太平洋沖地震のため閉館中。お問合せ TEL:03-3626-9974/博物館公式サイト http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/ まで。
19世紀前半頃の日本橋。英泉画「おさな遊 日本橋行列之図」(中央区立京橋図書館蔵)
明治44年(1911年)架橋当時の日本橋 (中央区立京橋図書館蔵)
1603年(慶長8年) | 初代日本橋架橋 |
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1604年(慶長9年) | 幕府が日本橋を国内里程の原標と定め、日本橋が全国街道の一里塚の総起点に |
1618年(元和4年) | 最初の大改架。『慶長見聞集』に長さ三十七間四尺五寸(約68m)、幅四間二尺五寸(約8m)との記述があり、後年の日本橋より長かった |
1872年(明治5年) | 木造最後となる改架。費用は日本橋魚河岸の魚問屋組合が負担 |
1911年(明治44年) | 現在の石造二重アーチの日本橋を架設。同年4月3日に開通式が行われる |
1923年(大正12年) | 9月1日、関東大震災発生。ブロンズの照明灯、高欄などが破損 |
1944年(昭和19年) | 東京大空襲。日本橋上にも焼夷弾が降り注ぎ、現在もその痕跡が残る |
1963年(昭和38年) | 日本橋上空に首都高速道路開通 |
1965年(昭和40年) | 都電廃止に伴い、橋中央にあった高さ約7mの「東京市道路元標」が撤去される |
1968年(昭和43年) | 5月、名橋「日本橋」保存会が発足 |
1972年(昭和47年) | 現在の日本国道路元標が設置される |
1999年(平成11年) | 日本橋が現役の国道道路橋として初の重要文化財に指定される |
2010年(平成22年) | 架橋百年を控え、長年にわたり付着した汚れを洗浄する日本橋クリーニングプロジェクトを実施 |
2011年(平成23年) | 4月3日に架橋百年を迎える |
上の写真とほぼ同じ位置(滝の広場)から撮影した今の日本橋
全国道の原点のしるし 日本国道路元標 五街道の原点であった日本橋は、明治以降も国道の起点として継承され、昭和47年(1972年)、橋の道路中央部に真鍮板の道路元標が埋設された(複製は北詰の元標の広場に設置)。文字は当時の首相、佐藤栄作によるもの。
徳川慶喜の直筆サイン 橋柱の銘板「日本橋」 明治44年(1911年)に完成した現在の日本橋だが、その銘板の揮毫は江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜によるもの。徳川のお膝元であった日本橋に江戸時代の面影を残すべく、当時の東京市長、尾崎行雄が依頼したという。
獅子は何頭隠れている? 獅子像 鎌倉期の運慶作といわれる奈良県手向山八幡宮の狛犬などを参考に造型され、東京市の紋章を持つ獅子像。橋の両端以外にも日本橋には、「橋(8×4)=32頭」の獅子が隠れているとか。実際に数えてみてはいかが?
東野圭吾の新作にも登場 麒麟像 瑞祥を期して造られた麒麟像には、「日本橋から飛び立つ」イメージを込めて背びれのような翼が。東野圭吾による加賀恭一郎シリーズの最新作は、ずばり『麒麟の翼』(講談社より発売中)で、日本橋が舞台になっている。
世界に誇る日本の美燈柱の紋様 橋に6基ある燈柱には、一里塚ゆかりの松と榎の紋様。日本橋は、"日本趣味""和洋折衷"を生涯をかけて追究した妻木頼黄(つまきよりなか)の代表作といわれ、獅子像や麒麟像を含め、世界に誇る日本の美が随所に装飾されている。
日本橋魚市場発祥の地 魚市場由来記碑と乙姫像 橋の北詰東側にある「日本橋魚市場発祥の地」碑と乙姫像。江戸時代に日本橋川の北岸一帯に魚河岸が設けられて以降、繁栄を極めたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼亡し、魚市場は築地に移転されることとなった。
首都高速が取り除かれ、沿線に憩いの場も設けられた目指すべき未来の日本橋のイメージ像