日本橋架橋百周年

日本橋が、明治44年(1911年)に現在の石造二重アーチ橋に架け替えられてから、 今年4月3日で100周年を迎えます。 江戸幕府の開府とともに架橋されて以降、日本橋は幾度となく改修と改架を 繰り返してきましたが、現在の橋梁は重要文化財であり、官民地元が一体となって 「残しながら、蘇らせながら、創っていく」をコンセプトに再生計画を進めています。 ここでは、そんな日本橋の過去から現在、そして未来の姿をご紹介します。

監修…東京都江戸東京博物館館長 竹内誠氏

2011年04月 【第6号】

江戸時代の木造の「日本橋」 ~過去~

日本橋のレプリカ

東京都江戸東京博物館に展示されている江戸期の日本橋のレプリカ(実物大で再現)。 東京都江戸東京博物館は東北地方太平洋沖地震のため閉館中。お問合せ TEL:03-3626-9974/博物館公式サイト http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/ まで。

江戸幕府の開府に伴い、慶長8年(1603年)に建造された日本橋は、江戸時代においては木造の太鼓橋でした。架橋の翌年の慶長9年(1604年)には五街道の起点に定められ、宝暦7年(1757年)の『萬句合(まんくあわせ)』には「ふる雪の白きをみせぬ日本橋」という古川柳があるように、日本橋は雪の積もる間もないほど人の往来が激しい、まさに江戸の中心地となります。江戸時代の日本橋には、西南橋詰に幕府のお触れを公示する高札場が、東南橋詰に罪人の晒し場があったほか、北岸には魚市場が広がり、橋下を通る船も多く殷賑を極めました。

19世紀前半頃の日本橋。英泉画「おさな遊 日本橋行列之図」(中央区立京橋図書館蔵)

19世紀前半頃の日本橋。英泉画「おさな遊 日本橋行列之図」(中央区立京橋図書館蔵)

現在の「日本橋を」知ろう ~現在~

明治44年(1911年)架橋当時の日本橋 (中央区立京橋図書館蔵)

明治44年(1911年)架橋当時の日本橋 (中央区立京橋図書館蔵)

明治36年(1903年)、市区改正計画により、幅6間以上の橋梁は鉄橋もしくは石橋を架設することが定められ、それまで木造だった日本橋も架け替えることに。花崗岩を用材とした現在の日本橋は、その法令に従い、明治41年(1908年)に着工され、明治44年(1911年)に完成しました。

名橋「日本橋」のあゆみ
1603年(慶長8年) 初代日本橋架橋
1604年(慶長9年) 幕府が日本橋を国内里程の原標と定め、日本橋が全国街道の一里塚の総起点に
1618年(元和4年) 最初の大改架。『慶長見聞集』に長さ三十七間四尺五寸(約68m)、幅四間二尺五寸(約8m)との記述があり、後年の日本橋より長かった
1872年(明治5年) 木造最後となる改架。費用は日本橋魚河岸の魚問屋組合が負担
1911年(明治44年) 現在の石造二重アーチの日本橋を架設。同年4月3日に開通式が行われる
1923年(大正12年) 9月1日、関東大震災発生。ブロンズの照明灯、高欄などが破損
1944年(昭和19年) 東京大空襲。日本橋上にも焼夷弾が降り注ぎ、現在もその痕跡が残る
1963年(昭和38年) 日本橋上空に首都高速道路開通
1965年(昭和40年) 都電廃止に伴い、橋中央にあった高さ約7mの「東京市道路元標」が撤去される
1968年(昭和43年) 5月、名橋「日本橋」保存会が発足
1972年(昭和47年) 現在の日本国道路元標が設置される
1999年(平成11年) 日本橋が現役の国道道路橋として初の重要文化財に指定される
2010年(平成22年) 架橋百年を控え、長年にわたり付着した汚れを洗浄する日本橋クリーニングプロジェクトを実施
2011年(平成23年) 4月3日に架橋百年を迎える
上の写真とほぼ同じ位置(滝の広場)から撮影した今の日本橋

上の写真とほぼ同じ位置(滝の広場)から撮影した今の日本橋

日本橋データ 所在地:東京都中央区日本橋室町1-1
開通日:明治44年(1911年)4月3日
橋長:約49m
幅員:約27m
総工費:53万3890円(当時)※明治44年当時の1万円=約1,090万円
様式:ルネサンス様式の二重アーチ道路橋
設計担当:米元晋一、樺島正義
装飾担当:妻木頼黄
彫塑担当:渡邊長男


日本国道路元標

全国道の原点のしるし 日本国道路元標 五街道の原点であった日本橋は、明治以降も国道の起点として継承され、昭和47年(1972年)、橋の道路中央部に真鍮板の道路元標が埋設された(複製は北詰の元標の広場に設置)。文字は当時の首相、佐藤栄作によるもの。

徳川慶喜の直筆サイン

徳川慶喜の直筆サイン 橋柱の銘板「日本橋」 明治44年(1911年)に完成した現在の日本橋だが、その銘板の揮毫は江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜によるもの。徳川のお膝元であった日本橋に江戸時代の面影を残すべく、当時の東京市長、尾崎行雄が依頼したという。

獅子像

獅子は何頭隠れている? 獅子像 鎌倉期の運慶作といわれる奈良県手向山八幡宮の狛犬などを参考に造型され、東京市の紋章を持つ獅子像。橋の両端以外にも日本橋には、「橋(8×4)=32頭」の獅子が隠れているとか。実際に数えてみてはいかが?

麒麟像

東野圭吾の新作にも登場 麒麟像 瑞祥を期して造られた麒麟像には、「日本橋から飛び立つ」イメージを込めて背びれのような翼が。東野圭吾による加賀恭一郎シリーズの最新作は、ずばり『麒麟の翼』(講談社より発売中)で、日本橋が舞台になっている。

燈柱の紋様

世界に誇る日本の美燈柱の紋様 橋に6基ある燈柱には、一里塚ゆかりの松と榎の紋様。日本橋は、"日本趣味""和洋折衷"を生涯をかけて追究した妻木頼黄(つまきよりなか)の代表作といわれ、獅子像や麒麟像を含め、世界に誇る日本の美が随所に装飾されている。

魚市場由来記碑と乙姫像

日本橋魚市場発祥の地 魚市場由来記碑と乙姫像 橋の北詰東側にある「日本橋魚市場発祥の地」碑と乙姫像。江戸時代に日本橋川の北岸一帯に魚河岸が設けられて以降、繁栄を極めたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼亡し、魚市場は築地に移転されることとなった。

「日本橋」に青空を取り戻す ~未来~

再開発の進む日本橋は、今後どう変わってゆくのか─。地元では、温故知新の精神で未来へ向けた街づくりに日々奮闘している方々がいます。目指すべき日本橋の未来像を名橋「日本橋」保存会事務局長の永森昭紀(ながもりあきのり)さんに伺いました。

未来の日本橋のイメージ像

首都高速が取り除かれ、沿線に憩いの場も設けられた目指すべき未来の日本橋のイメージ像

名橋「日本橋」保存会は、首都高速道路が作られた昭和38年(1963年)の5年後に創設されました。高架橋によって景観が損なわれただけでなく、かつては一体だった街が日本橋で分断されたことを憂い、地元の名士たちが"以前の美しい日本橋を後世に残そう"と立ち上がったのです。この建設計画が発表された当時、高速道路がどんなものかを知らなかった地域の人たちは、まさかあれほどまでに日本橋を覆ってしまうとは想像もしていませんでした。彼らがイメージしていたのは、手塚治虫の漫画に登場するような明るい未来都市であり、交通の便がよくなれば日本橋もさらに賑わうだろうと、むしろ期待感を抱いていたように思います。

保存会の最大目標である高架橋の撤去は、15~20年後には実現できるかもしれないと考えています。現在建設中の外環道が完成すれば通過交通はかなり減少しますし、現在の首都高を地下に埋めることもできます。ただ、これには莫大な予算が必要です。高架橋を取り除けば、ヒートアイランド化現象が抑制されるという研究結果も出ていますが、私たちとしては、巨費を投じて高架橋を撤去するだけの価値を、まず日本橋に取り戻すことが何より大切だと思っています。そのため川の浄化活動はもちろん、少しずつ沿岸の建物を内部に移転させる再開発計画を進め、緩やかな傾斜型の親水堤防を築くよう努めていますし、舟運都市としての機能を復活させ、観光化を推し進めるとともに災害時における水路の確保を目指しています。

私自身は半世紀にわたり日本橋をみつめてきました。この街の魅力は何と言っても人です。思うに、江戸ッ子の粋というのは"やせ我慢"かなと。自分が腹をすかせていても、人にどうぞと差し出すような思いやりや優しさ。それこそが江戸から続く支え合いの精神であり、それを今後の街づくりにも生かせればと願っています。(談)

永森昭紀氏 昭和17年(1942年)、神奈川県横浜市出身。(株)三越総務部渉外担当部長、名橋「日本橋」保存会事務局長。昭和36年(1961年)に三越入社後、昭和63年(1988年)の架橋77周年の記念行事を機に、保存会の活動に携わる。以後、長年にわたり日本橋の美化、活性化に尽力し、架橋100周年記念の数々の行事においても推進役を務める。

名橋「日本橋」保存会とは 日本橋上空に架かる首都高速道路を撤去し、本来の景観と街の活気を取り戻すことを目的に、昭和43年(1968年)に発足。代々三越の社長が会長を歴任している。例年7月の第4日曜日に行われる名橋「日本橋」橋洗いをはじめ、ECO EDO日本橋や春と秋の日本橋まつり、子ども橋サミットなどの行事を主催。