日本橋に縁の深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第46回は、うぶけや八代当主の矢﨑豊氏。天明3年(1783年)創業の同店は、幕末の頃に長谷川町(現在の日本橋堀留町)に江戸店を開業。明治維新前に、現在の日本橋人形町に移ってきた。以来、職人と商人を兼ね備えた“職商人”として、刃物研ぎの技術を継承しながら暖簾を守っている。職人の仕事と日本橋の街との関わりについて、未来への展望についてうかがった。
うぶけやは天明3年(1783年)、初代の喜之助氏※によって、包丁、鋏、毛抜きなどの打ち刃物専門店として大阪に創業した。喜之助氏が手がけた刃物が「産毛でも剃れる、切れる、抜ける」と評判を呼んだことから、“うぶけや”の屋号になったという。二代目の頃になると、家庭用品としての刃物の需要が増えたことから、腕利きの職人に製品をつくらせ、それを店で加工して販売するようになる。三~四代の頃に長谷川町(現在の日本橋堀留町)に江戸店を構え、明治維新の前に人形町交差点近くの現地に移転した。
※名前の「喜」は正確には異体字
八代の矢﨑氏は、生まれも育ちも人形町だ。この界隈は葭町(芳町)花柳界が近く、稽古事が盛んな土地柄。うぶけやでも代々、芸事を好み、矢﨑氏も3歳から長唄囃子を学び始めたという。中学で一時期、稽古を中断するが、高校進学時から再開し、東京藝術大学音楽学部で長唄囃子鼓を専攻する。
大学を修了して家業に入ると、すぐに、研ぎの工房として名高い稲荷町の“研勝(とぎかつ)”へ修行に出された。「最初は手順を教えるでもなく、師匠は黙々と仕事をしていました」と矢﨑氏。ここで邦楽の稽古が役に立ったという。「お囃子の稽古では、プロになる者に師匠は手取足取り教えてくれません。見よう見まねで覚えていくんですね。それと同じことかとわかり、とにかく師匠の仕事を観察しました」。やがて、研ぎの技術も楽器の演奏と同じく姿勢や手の角度が重要であること、研ぐ段階で音の変化が起こることに気づく。
そして一週間後、はじめて菜切り包丁を渡される。「師匠の真似をして研いだら、はじめてとは思えないと驚かれて。普通は左手が使えないらしいのですが、打楽器では左右同じ力を出すことが大事なので、以前から鍛えていたんです。ここでやっと、本気で修行する気があるのだと認めてもらえました」。研勝には全国から修行希望者がたくさん訪れていた。みな数日で音をあげていたそうだが、矢﨑氏は一週間辛抱し、しっかりと師匠の姿から学びとっていたため、見込まれたのだという。
半年過ぎた頃、矢﨑氏の仕事ぶりを見て師匠はこう話す。「上手くなったが、それでは食べていけいけないよ」。美術骨董や刀剣を研いでいるのではない、道具を研いでいるのだと教えられる。「切れるのは当たり前、早くて綺麗でたくさんこなすこと。それが職人なんです。もちろん、その境地に達するまでには、時間がかかりましたけれど」。それから20年間、朝夕は店に出て、昼間は研勝に通った。矢﨑氏はいまでも師匠の言葉を肝に銘じているという。
かつてこの辺りには和装小物問屋がひしめき合い、裁ち鋏や握り鋏を使ってくださるお客さまが多かった。その後、それらの会社が減って跡地にマンションが建ったことから、次第に家庭用品の需要が増えていく。「時代とともに街の様子は変わっても、来てくださるお客さまがいる。ありがたいことです」。うぶけやには親子 何代にもわたって通ったり、形見の品を持ち込んだりするお客さまも多い。
3年ほど前からは、ご子息も研ぎ場に入った。確かな技術は次の世代へと受け継がれている。今年からは一部の商品のネット販売も始めた。「でも、できれば道具は直接お渡ししたいという想いがあるんですよ」と矢﨑氏は笑う。「これからも、いままでの形態を大きく変えることなく、店を続けていきたいと思っています」。
うぶけや
東京都中央区日本橋人形町3-9-2
☎ 03-3661-4851
www.ubukeya.com