日本橋に縁の深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第44回は、重盛永信堂の三代目当主である重盛永造氏。20歳代の頃から人形町商店街協同組合の理事として活動し、54歳で理事長に就任。その後、中央区商店街連合会の会長にも任命された。日本橋人形町生まれの重盛氏に、街における商店街の役割について、また未来への想いを伺った。
水天宮前交差点に店を構える重盛永信堂は、大正6年(1917年)に創業した人形焼と煎餅の店。長野県の伊那から上京した初代の永治氏が、煎餅屋で12年間修行をした後、人形町通りに店を構えたのが始まりだ。当時、貴重だった卵や砂糖をたっぷりと使ったお菓子『ゼイタク煎餅』を売り出し、瞬く間に人気となった。関東大震災の際には街が瓦礫の山となったが、店の地下室に機械を運び込んだことから、焼き型が難を逃れる。その後、しばらく中野で営業を続け、昭和初年に現在の地に移転した。
「私は父の後妻に入った母との間に生まれたんです。父が56歳の時に生まれた子どもなので、誕生した時から姪や甥が6人くらいいたんですよ」と重盛氏。初代に将来の跡取りとして嘱望され、高校卒業と同時に店に入り、丁稚奉公を始める。寡黙だった初代は仕事に厳しかったが店以外では穏やかで、釣りとお座敷遊びを楽しみ、重盛氏も15歳から花柳界に連れて行かれたという。「私の母も柳橋の芸者だったんです。正月になると家にたくさん芸者さんが挨拶に来て、華やかでしたね」。
26歳の時に初代が他界。長女の婿である好久氏が後を継ぎ、重盛氏は初代が人形町商店街協同組合の理事長を務めていたことから、理事として活動を始めた。当時、組合の中では飛び抜けて若かったが、同世代の仲間を集めて、広報や宣伝活動に力を入れていく。
その頃、街には歴史を記したさまざまな資料が残っていた。しかしどれも古く、このまま時間が経てば散在してしまうと考えた重盛氏は、商店街の20周年史発行を思いつく。販売した後に返済するからと資金を集めて制作を始めた。写真屋、脚本家、編集者、国文科出身者など10名の仲間とともに、少しずつ編纂していったという。つてを頼り、公文書館で江戸時代の屋敷割を記した絵図「沽券図」も見せてもらった。「とにかく見やすい本にしようと考えました。時代を伝える写真をふんだんに盛り込んで、航空写真も撮ったんですよ」。
いまその記念誌を開くと、非常に貴重な写真や図版、歴史的記録が掲載されていることに驚かされる。「昔は隅田川に水練場というプール教室があったし、浜町公園に弓道場があったりしてね。そういうことも本にまとめておかないと残せないでしょう。父が昔から言っていたんです。商店街は自分の生活の場だから、発展していけるよう力を尽くさなければいけないと」。
現在、人形町通りにある2台の“からくり時計”も、重盛氏の発案で製作されたものだ。「資金をやりくりして京都の職人さんにつくってもらいました。は組*の半纏、梯子乗りや鳶頭の衣装など忠実に再現しています」。
商店街の未来について、重盛氏は若手にとても期待しているという。「常に街の中に人が集まる状態をつくらなければいけない。そのためには評判を呼ぶようなことを、どんどん仕掛けていかないと。大切なのは人と人の繋がり。仲間をつくって、一つのことを一生懸命にやり遂げる。それが上手くいった時のビール一杯のうまさは、その時しか味わえないものだからね。若い人には、その一杯のために頑張れと言っているんです」。ベテラン世代が後ろをしっかりと守り、若い世代を育てる。人形町に脈々と受け継がれてきた文化だ。
* は組…日本橋人形町を管轄している江戸町火消“いろは48組”の一つ。
重盛永信堂
東京都中央区日本橋人形町2-1-1
☎ 03-3666-5885