日本橋に縁の深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第43回は、株式会社鹿島組 社長の鹿島靖幸氏。鹿島家は、江戸時代から続く柳屋外池本家のお抱え鳶で、代々、江戸町火消「ろ組」の鳶頭も務めてきた。鳶頭の役割と山王祭について、また長年見守ってこられた日本橋の街の移り変わりについて伺った。
鹿島氏は昭和8年(1933年)、日本橋の鳶頭の家に生まれた。鹿島家は代々、元和元年(1615年)創業の柳屋外池本家のお抱え鳶を務めてきた家だ。柳屋は江戸時代、頬紅や口紅、鬢づけ油などを取り扱う大店で、火の元にはことのほか注意をはらっていた。それでも江戸では頻繁に火事が起こったことから、他の場所に日よけ地を設けて災禍を逃れ、市中の火事が収まると再び日本橋に戻って店を建て直していたという。鹿島家はその度に、建物の再建に力を尽くした。
先代の仁太郎氏は戦後の復興期、柳屋の仕事だけでなく、三越本店の営繕課に務めながら、百貨店と街の再興のために立ち働いた。しかし昭和28年(1953年)、若くしてこの世を去る。まだ20歳だった鹿島氏は、鳶頭の心構えについて仁太郎氏から教えを請う暇もなく、大役を引き継ぐことになった。「半纏の着方から何から、日本橋の職人の家に育った親戚のおばさんに教えてもらったんですよ」。
歴史の中で、町火消はどのような役割を果たしてきたのか。鹿島氏によれば、江戸時代、町火消は奉行所が管轄し、約1万人いたという。江戸城に火災が及ばないよう、四谷や赤坂、半蔵門、浅草などの見附を結んだ江戸市中を管理していた。明治になると警視庁の直轄となり、市部消防組と呼ばれるようになる。昭和14年(1939年)からは警防団として空襲下の救助活動を担い、昭和22年(1947年)に消防団令が発令されて、消防庁が誕生。現在の消防署ができた。警防団令が発令された昭和14年(1939年)に江戸町火消の制度もなくなったことから、半纏や纏、木遣りや梯子乗りなどの技を残すために江戸消防記念会が発足したという。
鹿島氏は34歳の時、江戸消防記念会第一区の三番組頭、いわゆる「ろ組」の頭に就任する。40歳の時には本業である鳶職の業界団体、日本鳶工業連合会の理事に着任し(現在は参与)、バイタリティ溢れる若きリーダーとして活躍してきた。1970年~80年代には、江戸消防文化親善使節団として、海外で町火消の伝統文化も披露している。
日本橋にまつわる思い出の中で、ひときわ印象的なのは、昭和21年(1946年)に行われた“日本橋復興祭”だという。「瓦礫の中から立ち上がろうという強い想いで斎行されたお祭りでした。辺りは焼け野原でしたが、それでも活気があった。この時の神輿は、いまも檜物町(現在の八重洲一丁目)に残っているんですよ」。鹿島氏は当時、中学一年生。「祭りによって、ばらばらになっていた街の勢いが一つになったんです。それから、徐々に山王祭も復興していきました。日本橋にとって祭りは絆みたいなもの。日本橋に限らず地域にはそれぞれ受け継いできた祭りのやり方というのがあって、みんな誇りを持っているんですよ」。山王祭で鳶頭は、神輿を納める御仮屋を手がける。かつては御仮屋の出来映えで、各町内の威風を競いあっていたという。
交通規制によって神輿が担げない時期もあったが、現在は茅場町や京橋、八丁堀などと協力して、下町連合渡御が再び盛り上がりを見せている。「時代によって祭りの形も変わる。街も同じです。私たちは100年後の姿は見られないでしょう。“行雲流水”という言葉があるけれど、街の移り変わりは人の力だけではどうにもならないところがある。人も街も時の流れに逆らうことなく、流水のごとく生きていくのがいいと思っています」。
鹿島組
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