割烹 松楽 女将 石原 わか子 氏

2014年02月号【第40号】

風景は変わっても人情のある街であり続けたい

日本橋に縁の深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第39回は、割烹 松楽の女将である石原わか子さん。日本橋川近くの鮨店に生まれ育ち、20歳の時に松楽に嫁いできたわか子さんは、日本橋の街とともに人生を歩んできた。店の歴史とかつての街の様子、これからの日本橋への想いについて伺った。



女将の心得を教えてくれた大切な義母の思い出

 松楽の歴史は昭和11年(1936年)に始まる。フランス大使館でシェフを務めていた初代の石原清三郎氏が、浅草に西洋と中華料理の店を立ち上げ、戦後になってから日本橋に移転して和食割烹を開業した。
 わか子さんがこの店に嫁いできたのは20歳の時。日本舞踊の稽古の行き帰りに店の前を通っていた姿をご主人が見初め、縁談の話が舞い込んだという。「私の兄と主人は街の青年部で顔見知りでしたが、私は全然知らなかったんです」。

ほとんどプライベートの時間がないというわか子さん。「趣味と呼べるものはなくて、縁日やお祭りが最大の楽しみ。盆踊りはいつも踊っています。やはり踊りが好きなんですね」。

石原わか子さん 日本橋生まれ。高校卒業後に2年ほどOLの仕事を経験し、松楽に嫁ぐ。2人の子どもを育てながら、初代夫妻から店の仕事を学び、31歳で女将に。現在もご主人とご子息とともに店を切り盛りする。
 

 芸事の稽古で行儀見習いをしていたとはいえ、社会人としての勉強はまだまだこれから。実家のお母様は「何もできないのに大丈夫だろうか」と心配したそうだが「義母が、私が仕込みますから安心してください、といってくれて」。その言葉通り、嫁いでからは、はたきや箒の使い方から洗濯の仕方まで、細かく教えてくれたという。「大好きな義母でした。一度も喧嘩したことがないんです」と懐かしそうに振り返る。「明治生まれなのに考え方がモダンで、自分のお小遣いがあった方が気兼ねがないだろうと、私も最初から給料制にしてくれました。普段の生活は地味でしたが、同窓会などよそに出る時は恥ずかしくないようにと心を配ってくれたんです」。
 そんな人生の師であったお義母さまを31歳の時に亡くす。この頃から、女将としての気構えが変わってきたという。

幼なじみとともに写した神田祭の時の写真。最前列の右から二番目がわか子さん。

日光写真*におままごと 路地や空き地が遊び場だった

 日本橋川近くの鮨店の次女として生まれたわか子さん。当時は車も少なく、路地や空き地、百貨店や昭和通りの真ん中にあった中之島などが遊び場だった。
 家ではボートを所有していて、ご飯を炊く釜で使う薪を運んでいたという。千葉方面から貝を乗せた小舟が行き来し、新鮮なあさりの味噌汁が食卓に上った。川が生活の一部として機能し、街に溶け込んでいた様子がうかがえる。

ハイカラだったという石原家のご両親。お義父さまは世界旅行に行ったこともあるのだとか。

ゆったりとした気持ちで日本橋を味わってほしい

 20代で2人のお子さんをもうけ、母として妻として女将として、忙しく働いてきた。これまでの苦労について尋ねると「つらいと思ったことは全くないですね」とおおらかな笑顔が返ってきた。「お客さまと接することで、本当にいろいろなことを学ばせていただきましたから。ちょっと大変だったなと思うのは子育ての時期に胆石を患ったこと。さすがにこの時ばかりは、体力的にきつかったかな」。
 時代とともに、店も少しずつ変化を遂げてきた。昭和50年前後はオイルショックで客足が伸びないこともあったという。昭和53年(1978年)には、店の裏側の路地に面した1階部分を改装し、新たにテーブル席を設けた。それまでは接待の宴会が中心だったが、時流に合わせ、軽く飲む時にも寄ってもらえるようなつくりにしたという。常に心がけていることは、お客さまに楽しんでいただくこと。「また来たいな、と思っていただけたら。それがいちばんの喜びです」。

写真上/日本橋ならではの情緒が漂うお座敷。企業の接待や大切なおもてなしに利用されることが多い。床の間に飾られた書は、ご子息である三代目の手によるもの。
写真下/店の裏手には夜のみ営業する「スタンド松楽」も。気軽に立ち寄ってもらえるようにとテーブル席が設けられている。

 古くからあった企業が移転して、新規の店舗が増えるなど、日本橋にはいま新しい風が吹いている。「日本橋で一度お勤めされた方は、みんな懐かしんでまた足を運んでくださる。そういった方たちに、いつまでも愛される場所であり続けたいですね。人情のある街、日本橋ならでの情緒や美しさをみなで守っていければと思っています」。
*日光写真…種紙(たねがみ)とよばれるものを感光紙の上に置き、太陽光で写真にする昭和時代の遊び。玩具として箱がカメラの形をしていたものも。

毎年、正月にはきものを着て髪を結い、写真を撮っていたという。これは15~6歳の頃、芳町の写真館で撮影したもの。“日本橋小町”と呼ばれていた。
DATA

割烹 松楽
東京都中央区日本橋室町1-11-2
☎ 03-3241-3573
※2014年8月より、建替のため閉店中。