日本橋に縁の深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第38回は、紀文堂 二代目の尾﨑和雄氏。昭和13年(1938年)に紀文煎餅店として開業した紀文堂は、長年、地元の人々に愛され、この地とともに歩んできた。東日本橋やげん堀商店会会長を務める尾﨑氏に、街の移り変わりとこれからの想いをうかがった。
尾﨑氏の父である紀文堂の初代は、明治23年(1890年)に両国で創業した紀文堂総本店(現在の店舗は浅草)で修行し、昭和13年(1938年)にのれん分けの形で開業した。戦争中は一家で新潟に疎開していたが、終戦を迎えるといち早く戻ってきて商売を再開したという。尾﨑氏が家業に入ったのは大学を卒業してすぐのこと。初代の仕事を見ながら、職人としての技を覚えていった。「当時この辺りは商店が多くて賑やかでした。集団就職で働きに出てきた職人さんや小僧さんがたくさん住み込みで暮らしていたんですよ。うちにもベテランの職人がいました」と振り返る。時代が下り、週休2日制が広まり始めた頃から住み込みが減り、仕事場から少し離れた場所に住居を構える人が多くなったという。
紀文堂の菓子は初代の頃からの製法を守り続けている。店の奥にある作業場には掘りごたつ式の焼き台があり、その中に座りながら、長年使い慣れた型を用いて人形焼や瓦煎餅などを焼いていく。取材時はちょうど餡の入っていない『やげん堀』という菓子を焼いているところだった。「これは赤飯に入れる豆“ささげ”をかたどっているんです。ちょっと珍しいでしょう」と尾﨑氏。熱した型に胡麻油を塗り込み、卵や砂糖、小麦粉、ハチミツからなる生地を手際よく流し込んでいく。焼き上がった菓子は次々に木箱に積み上げられ、店内には甘い香りが漂い始めた。
“東日本橋”の地名は、もともと薬研堀町、吉川町、米沢町、若松町、村松町などが一つになって“日本橋両国”となり、それが昭和46年(1971年)の住居表示によって改定し誕生した。この辺りには明治時代まで運河があり、堀の形が薬種をひく器具の薬研に似ていたことから“薬研堀”と呼ばれていたのだという。その名残はいまも、年末に“納めの歳の市”で賑わう薬研堀不動院や、尾﨑氏が会長を務める商店会の名称に見ることができる。
東日本橋も一時は人口減少が目立ったが、近年マンションの建設により家族連れの居住者が増えてきている。街の活性化に取り組む商店会ではこうした人々にも気軽に参加してもらえるよう、さまざまなイベントを実施している。“やげん堀縁日まつり移動商店街”もその一つ。20店舗ほどの商店が出店するほか、精巧につくられたミニSLが道路を走り、子どもたちに人気だ。「新しく店を開業した方や転居していらしたご家族に、どんどん街に溶け込んでもらいたいと思っているんです」と尾﨑氏は力を込める。“地域は人ありき”との思いがあるからだ。
「将来的には川にスポットを当てた取り組みも進めていきたい。かつて隅田川と神田川の川辺は多くの人で賑わっていました。乗船場を開放して通勤時に水上バスを通わせたり、東京タワーから東京スカイツリーまでのルートができたりしたら嬉しいですね。川を通じて街に遊びに来てくれる人が増えればと願っています」。
紀文堂
東京都中央区東日本橋2-1-2
☎ 03-3851-7501