日本橋に縁の深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第34回は、割烹 や満登 三代目の成川孝行氏。日本橋六之部連合町会、八重洲商店会、八重洲一丁目東町会の常任相談役も務める成川氏は、生まれも育ちも日本橋という生粋の日本橋っ子。戦前から現在まで、めまぐるしく移り変わってきた街の様子をつぶさに見てきた。日本橋と川をめぐる風景について、また未来への想いについてうかがった。
110年あまりの歴史を持つ割烹 や満登。店のある八重洲一丁目は、かつては“檜物町”と呼ばれ、花柳界のある華やかな場所だった。この地で生まれ育った成川氏にとって、思い出の中にある水辺のイメージは現在の姿とだいぶ異なるという。「子どもの頃には外堀通りに市電が走っていて、その横は文字通り水のあるお堀だったんです。運送船も通っていてね。船着場はなく、崖みたいになっていたから、家族で潮干狩りに行くときは、鉄梯子を降りて船に乗りました。ちょうど大丸のあたりですね」と、いまからは想像できない当時の様子を教えてくれた。ほとんど流れはなかったが、小ぶりの遊覧船も入ってきたという。銀座の三井アーバンホテルの辺りに遊覧船乗場があり、浅草まで行くことができたそう。
お堀沿いには柳の木が植えられていて、街灯もなく夜は真っ暗。「親の言うことを聞かないと、よく柳の木に結わえつけられましたよ。可哀相だからと、ご近所の料亭(八重洲)とよださんが取りなしてくれたりして」と、ご近所同士の幾代にも渡るつきあいが垣間見える。また成川氏のお母さまは、現在の日本橋が完成した明治44年(1911年)に渡り初めをしたお稚児さんの一人。架橋77周年と80周年の折にも、同じように記念に橋を渡る役目を担った。「三度も渡り初めをした人は、母しかいなかったようです」。日本橋で長年商いをしてきた老舗ならではのエピソードだ。
成川氏は、日本橋区立城東小学校(現・中央区立城東小学校)を卒業し、戦火の中で旧制中学時代を過ごした。戦時中、店は陸軍司令部として使われていたという。終戦後は復学して明治大学に進学。卒業後、胸を患ったことから就職を取りやめ、家業に入る。「学生時代は父のすすめで、いろいろなアルバイトをしました。後楽園球場(現在の東京ドーム)でアイスキャンディーを売ったり、渋谷区役所の土木課で歩道の補修をしたり。さまざまな仕事を経験したことで、大げさに言えば土俵際で耐えることを学んだ気がします」。家業を継いでからも、これらの体験が心の糧になったという。
日本橋への愛着はひとしおで、これまで街に関わる数々の要職を務めてきた。昭和63年(1988年)の架橋77周年の折に開催されたシンポジウムでは、日本橋を挟んだ室町側と八重洲側の親睦を深めようと“名橋「日本橋」まつり”を提案。祭りの開催が春に決まると、橋のたもとに桜の木を植えるアイデアを出し、地元から多くの支持を得て実現させた。「日本橋で生まれ育ったから、お役目をいただくとすごく責任を感じてしまうんです」。だからこそ、これからの日本橋への期待も大きい。「若い人たちがどんな街をつくっていくのか楽しみですね。地元を愛し、情熱を持って取り組んでもらいたい。そうすれば企業の方々も、きっと応援してくださるんですから」。
江戸時代、水の都だった日本橋。その面影は戦後まで残っており、人々の暮らしに彩りを添えていた。川には独特の雰囲気がある、と成川氏は語る。「水面近くに遊歩道をつくり、江戸橋から日本橋をくぐって、常盤橋までいけるようになったらいいですね。船上の人と岸辺の人が会話できるような、そんな川辺が夢なんです」。
割烹 や満登
東京都中央区八重洲1-7-4 矢満登ビル地下1階
☎ 03-3271-2491(現在改装中、2013年9月9日新装開店予定)
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