日本橋に縁の深い人たちにご登場いただく「まち・ひと・こころ 日本橋福徳塾」。第28回は、株式会社榮太樓總本鋪の代表取締役社長・細田眞氏。文政元年(1818年)に江戸へ出府した細田家の流れをくむ初代榮太樓が、日本橋の屋台で金鍔(きんつば)売りをしたのが店の始まりだ。『梅ぼ志飴』や『甘名納糖』『玉だれ』など、初代が考案したお菓子は、時代を超えた今も変わらぬ味が人気を誇っている。2008年に八代目取締役社長に就任した細田氏に、榮太樓ならではの菓子づくりについてお話をうかがった。
今年で創業156年を迎える榮太樓總本鋪。「うちの店はもともと魚河岸の若い衆に可愛がられて育ったんです」と、細田氏の話は日本橋らしいエピソードから始まった。榮太樓の初代は当時、高価で薬としての役割もあった砂糖を、庶民の口に入りやすいようにお菓子づくりを始めたのだという。例えば『甘名納糖』は、雑豆であった金時大角豆(きんときささげ)を甘く柔らかく煮て、手頃な値段のお菓子として売り出したものだ。「京都の雅なお菓子とは成り立ちが違います。小腹を満たす意味合いがあったんですね。その原点を忘れずに、美味しくて気軽に求められる実質本位のお菓子をつくり続けてきました」。
時代の流れの中で味の研究を重ね、原料も吟味してきた。創業時からの人気商品『金鍔』には、北海道産の特定の小豆を使っている。他の商品でも積極的に国産原料を使用している。「でもそれを強調するのは野暮。声高には言わないんです」。このスタンスが、江戸の老舗の心意気なのだろう。
榮太樓には世代を超えて愛されてきたロングセラー商品と、時代の風とともに誕生した新しい商品がある。「どちらもつくる姿勢は一緒です」と、細田氏の言葉は明快だ。榮太樓の歴史を紐解くと、菓子製造の文化史を垣間見ることができる。『梅ぼ志飴』の水飴を煮る釜が徐々に大きくなっていったり、燃料が薪からコークス、ガスへと変わっていったり。それでも基本のつくり方は変わらない。
昭和30年~40年代の高度経済成長期には、菓子づくりの世界でも機械化が進んだが、この時もものづくりの姿勢は変わらなかった。「通常、機械でつくるお菓子は機械に合わせたレシピに改変するのですが、私どもは逆でした。うちのレシピに機械を合わせてもらったんです。お饅頭をつくる際に使う包餡機も機械屋さんと研究して、ギア比を変えたりしました。より手づくりに近いお菓子づくりができるように探っていったんです」。
大学卒業後に日本郵船に6年ほど勤め、家業に入った細田氏。企画部門を経て、20年近く製造部門に携わった。1995年には、定番商品の『黒飴』をさっぱりとした味にアレンジした『黒みつ飴』を開発し、スーパーやコンビニなどの量販店市場に進出する。
実は黒糖は榮太樓にとって、長年研究を続けてきた得意分野。さとうきびの汁を煮詰めてつくる黒糖は沖縄の離島が産地で、かつて沖縄が本土に復帰する前には、職人さんが沖縄まで出向き、品質を確かめながら買い付けていたという。生産管理が安定した現在は、西表島と小浜島のものを使用している。先の『黒みつ飴』や『黒飴』もこの黒糖を使った商品だ。近年は黒糖を軸に、飴やプリン、チョコレートなど他の企業とのコラボ商品も手がける。「“温故知新”は当社のキーワード。よいアイデアがあれば、皆で練って、実現していきます」。
もう一つ、企業として大切にしているのが「味は親切にあり」という言葉だ。「江戸のお菓子らしさとは華美でないこと。目線を高くすることを“高上がり”といいますが、うちはそうはしません。菓子司という位置づけではなく、あくまで菓子屋。それはこれからもずっと変わらないでしょう」。
榮太樓總本鋪
東京都中央区日本橋1-2-5
☎ 03-3271-7785
www.eitaro.com